冬の夕空
 9 言葉にできないもの
 
 いつのまにか私の部屋に戻っていた。
 ミシェルが私の口もとをぬぐうように指でこする。ちょっとひりひりする。
「口の中も切れてる。痛かっただろ?」
 私の目をのぞきこんで言う。
 痛いのはもっと胸の奥のほう。
 私が答えないでうつむいたままでいると、彼は頬にそっと手をあてる。じんわりとあたたかくなり、痛みが飛んでいく。頬をポンポンと叩いて彼は言う。
「明日の朝には傷も消えるから」
「明日の朝なんて来なくてもいい」
 私は涙が流れるのをこらえながら言う。
 彼は私の目をみつめる。
「まだ20歳になったばかりだ」
 私は彼の腕をぎゅっとつかむ。
「ミシェルのいない世界に行きたくない」
 彼は私の頭を軽くなでなでする。
「お風呂に入っておいで」
「やだ」
「どうして?」
「離れたくない」
「どこにも行かない」
「嘘だもん……。うっ、うぅ……、うわぁぁ……」
 私は子どもみたいに声をあげて泣いた。
「ごめん」
 そう言って彼は私を強くぎゅっと抱きしめる。彼の身体があたたかい。また涙が出てくる。
「じゃあいっしょに入ろう」
 そう言って彼は着ているものを脱ぎ始めた。そして私の服もゆっくりと脱がす。腕や足に爪でひっかいたような傷がいくつかあった。彼が手でなぞると傷は薄くなり消えた。全部脱がすと彼は私の顔を上げさせ唇に軽くキスした。
 
 お風呂場で彼は私の身体を洗ってくれた。身体の真ん中から指先まで、手でゆっくりとなぞっていく。身体の力が抜けていくような気がした。
 私は話すべき言葉がみつからず、ずっとだまっていた。彼も何も話さなかった。
 私を浴槽のふちに腰掛けさせ、足の指も一本一本ていねいに洗う。私の目から涙がこぼれ、太ももに落ちた。
「泡が流れる」
 彼はそう言って少し笑った。私も笑おうかと思ったけど、うまく笑えなかった。
「頭も洗おう」
 そう言って彼は私の頭にシャワーでお湯をかける。
「気持ちいい……」
 温かいシャワーの感触に、少し心が軽くなる気がした。
「頭にシャワーかけられてるときに話したらおぼれるよ?」
 私の髪を軽くごしごししながら彼が言う。
「おぼれないよ……ぶわっ!」
 彼が私の顔に向けてシャワーをあてた。
「ほらね」
 笑いながら彼が言う。
「わざとだもん……、今の」
 私も少し笑う。
 彼がシャンプーで髪を洗ってくれているあいだ、私は彼と出会ってからのことを思い出していた。
 教会で初めてみかけたときのこと。
 お茶の淹れ方をほめてもらったこと。
 初めてキスしたときのこと。
 お花を持ってうちに来てくれたこと。
 初めてしたときの朝、ちょっと彼がかわいかったこと……。
 止まっていた涙がまた少し流れそうになる。
「僕はマリィにあやまらないといけない」
 髪を洗いながら彼が話し出した。
「約束のくちづけのこと。あれは……してみたかっただけなんだ」
「……そんなこと今さら言われても」
「怒ってる?」
「……なんていうかあきれてる」
「きらいになった?」
「……知ってて聞いてるんでしょ?」
「マリィも僕の心が読めるんだね」
 彼が私の髪をシャワーで流す。
 涙もいっしょに流れた気がした。
 
「きれいな髪だね」
 ドライヤーをあてながら彼が私の髪を指でとかす。
「ミシェルの髪のほうがきれいだよ」
「これ好き?」
「うん」
「僕のどこが好き?」
「髪」
「それだけ?」
「目」
「他には?」
「……ひみつ」
「教えて」
「……言葉で説明できない」
 彼は鏡越しににっこりと微笑みかける。
「僕も髪を乾かすから先に出てて」
 私はじっと彼の目をのぞきこむ。
「こんなびしょびしょの髪でどこにもいかない」
 そう言って彼は私を軽く抱きしめる。
 彼の濡れた髪が頬にあたって少し冷たかった。

 部屋で一人になっても、もう涙は出てこなかった。
 バスタオルを身体に巻きつけた格好でベッドに腰掛ける。
 頭がまるで働かない。
 ドライヤーの音が少し聞こえている。
 涙は出ないけど胸の奥がずっと痛い。すごく痛い。
「寒いだろ? 中に入ろう」
 お風呂場から出てきた彼が、私をベッドに寝かしブランケットをかける。
 そっと抱きしめられると、彼の身体があたたかかった。
 唇に軽くふれるキスをする。
 やわらかい唇と、あたたかい息を感じる。
 舌がそっと差し込まれる。
 口の中でゆっくりと動く。
 彼の唇が、舌が好き。
 ミシェルのことがすごく好き。
 キスすることがこんなにすごいことだなんて私は知らなかった。
 好きな人とキスすることは、きっと素敵なことだろうとは思っていたけれど。
 こんなにもすごいことだったなんて。
 全部、ぜんぶミシェルが教えてくれたんだよ……。
 彼はそっと唇を離す。
 私はゆっくりと目を開ける。
 彼は私の唇のあたりをぼんやりと見ている。
 私は彼の長いまつ毛をじっと見る。
 彼はゆっくりと口を開いた。
「僕も……、好き。……マリィのことが。……すごく」
 彼は私の瞳を一瞬だけみつめ、やさしく微笑んだ。
 そしてまた舌を入れてさっきより少し激しいキスをする。
 口の中が……、身体の中が熱い。
 耳元に彼の唇が移動する。舌が、唇が、熱い息が、私の肌にあたる。
「はぁ……。あん……」
 熱い息が私の口からももれる。
「好きだよ」
 私の耳元で彼がささやく。
「はぁっ、あ……、わたし……んっ」
 わたしも好き、って言おうとしたのに唇をキスでふさがれた。
 長い長いキスをする。
 唇が、身体中がしびれる。
 彼の指が私の真ん中にふれる。
 彼の指が少し冷たい。たぶんそれは私の中がすごく熱いから。
 彼が私をぎゅっと抱きしめ、そっと頬ずりする。
「マリィ……」
「うん……。あっ……」
 彼のものがそのまま入ってきた。
 ゆっくりと、奥のほうまで。
「んっ、あぁん……。あっ、あぁぁ……」
 身体が、意識が、どこかに沈んでいく。
 何か握っていないとおぼれてしまう。
 でも、自分の手がどこにあるかわからない……。
 彼が私の手をぎゅっと握ってくれた。
「はぁ、はぁ……。ミシェル……」
 私の口もとに彼が耳をよせる。
「好き……」
 私がそう言うと、彼は私の肩越しにうなだれ、シーツに突っ伏した。
 彼の身体の重みが心地よかった。
 小さな声で彼がつぶやく。
「少しこうしてていい……?」
「うん……」
 私はそっと彼の背中に手をまわす。
 彼の呼吸にあわせて背中が揺れる。
 普通に息して、ごはん食べて、夜は眠って……。
 くっつくとこんなにあたたかいのに……、どうして彼は悪魔なんだろう。
 
 しばらくすると彼はゆっくりと顔をあげ、私の目をじっと見た。
 そして何か話し出すように口を軽く開く。
 だけど彼の口から言葉は出てこなかった。
 その唇で私たちは再びキスをした。

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written by nano 2008/02/13

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