冬の夕空
 8 殺して

 その後、二ヶ月間ぐらい本当に楽しかった。
 いろんなことがあったような気もするし、なんにもなかったような気もする。
 彼はやさしくてかわいくて、私はすごく幸せで。
 でもそれがずっと続かないってことも、私は知ってた。

「ねえ、どこか旅行に行こう。一週間ぐらい」
 部屋でお茶の用意をしていると、ベッドからミシェルが声をかけた。
「旅行?」
「きれいな海見たくない?」
 彼は私を背中から抱きしめ、ちょっと甘えるような声で話す。
「海が見える部屋に泊まって……、一日中いっしょにいよ」
「素敵だけど……、そんなに仕事休めないよ」
 私は彼の手をほどいてテーブルにお茶とお菓子を並べる。
「……どうせつぶれるよ、店」
 少しすねたように彼が言う。
「ミシェルは……いつまでここに?」
 私が聞くと、お茶を飲みながら目を合わさないで彼は答える。
「もうそんなには」
「そっか……」
「このシフォンケーキ、いい感じにふくらんでるね」
 彼が機嫌をとるように笑いかける。私は笑い返せなかった。
「お別れが近いんですね」
「……うん」
 少しだけ困った顔をして彼はうなずく。
 私は涙が出そうなのを必死でこらえる。
「たぶん、しかたないし……。でも今まですごく楽しかったから……、しばらくつらいと思うけど……だいじょうぶ……」
 でも言い終わらないうちに涙があふれてきた。泣いている自分に気が付くと、よけいに涙が止まらなくなる。
「……消すから。記憶」
 彼の言葉に私は顔を上げる。
「……消す?」
「どうせ正体を知られてるんだから消さないといけない。僕に関することは全部消す。だからつらくないよ」
 彼はやさしく微笑んだ。
「そんな……、やだ……。消さないで」
「しかたないんだ」
「勝手だよ……。全部大事な思い出なのに……」
「……じゃあ僕を別の誰かに置き換えて記憶を修正する。ちょっと面倒だけど、君は特別」
 彼が話し終わらないうちに私は立ち上がり、テーブルの上のものを全部払い床に叩き落した。床に落ちたケーキを見て彼が言う。
「せっかく上手に焼けていたのに」
「そんなことどうだっていい!」
 テーブルを両手でバンと叩いて私は叫ぶ。
「ミシェルは……、何でも知っているような顔をしているくせにっ、何にもわかってない! 全然、ぜんぜんわかってないっ! ミシェルのことを消されるぐらいなら……、死んだほうがマシ……。もう殺して! 殺して! 殺してよぉ……」
 私は床に泣き崩れた。
 彼はそんな私を同情するでもなく、怒るでもなく、見下すでもなく、普通の顔で見た。
 そして立ち上がり玄関に向かう。
「ちょっとどこ行くのよ!」
 私は追いかけて彼の腕をつかむ。彼はその手をそっと押さえる。
「こんな状態で話をしても無駄だ。すぐに戻ってくるから……少し落ち着いてくれ」
 そう言って彼は私の手をのけて扉から出て行った。

 一時間たっても二時間たっても彼は戻ってこなかった。
 もうずっと戻ってこないかもしれない。
 このまま二度と会えないまま、勝手に記憶を消されるのかもしれない。
 もうどうなってもいいからせめてもう一度会いたい……。
 玄関の扉にもたれ、座り込んだまま、私は泣き続けた。
 
 翌日、私は風邪をひいたのか熱を出した。頭がすごく痛くて立ち上がるとめまいがする。
 彼はやっぱり戻ってこなかった。
 最悪だ……、こんなときに熱出して寝込むなんて。
 とりあえず仕事は休み、風邪薬を飲んで眠った。
 このまま……、目が覚めなければいいのに……。
 
 と思ってもやっぱりちゃんと目は覚めた。
 すごくいい夢をみていた気がする。
 でもすごくいい夢って、たいてい目が覚めると忘れちゃうんだよね。
 薬を飲んで寝たせいか不思議とすっきりした気分だった。
 窓を開けてみると澄んだ夕焼け空がひろがっていた。
 熱も下がったみたいだし明日は店に顔を出そう。
 
 翌朝、店に着き私は呆然と立ち尽くした。
 シャッターに「閉店のお知らせ」という紙が張られていた。
 店が……、つぶれるだろうとは思っていたけど……。
 何も知らされてなかった。もしかして昨日? 私が熱出して寝込んでるときに? 今月の給料は? それよりも初めて働いた店なのに挨拶もできないで、こんな……。
 私は裏口にまわってみた。もしかしたら中に誰かいるかもしれない。
 裏口の扉は開いた。
 中には誰かがいた。
 知らない誰かが。
 ……泥棒? 気づかれないうちに逃げないと。
 そっと後ずさりしようとすると、後ろから誰かに羽交い絞めにされた。
「みつけたよ。カネメのもの」
 後ろから男の声がする。事務所の中の知らない男が私の顔を見る。中年の男だ。
「お嬢ちゃん、ケーキ買いに来たの?」
 私は後ろの男に口を手で押さえられていた。首を横に振る。中年の男が近くに寄ってきて言う。
「この店の関係者?」
 私が返事できずにいると、その男がひざで私のお腹を蹴った。痛さで息が止まる。
「聞いてるんだけど」
「かわいそうじゃね? 俺が押さえてるから答えられないんでしょ?」
 後ろの男が口を押さえている手を放す。
「……この店で働いてました」
 うまく声が出なかった。後ろの男が私の顔をのぞきこんで言う。こっちは少し若い。
「俺たちここのオーナーに金貸してたんだ。どこ行っちゃったのかな、オーナーは」
「……知りません」
 そう答えると中年の男に顔を殴られた。口の中に血の味が広がる。
「ほんとに……しらないんです……」
 涙があふれてくる。
「じゃあ、この娘に返してもらっていい?」
 若いほうの男が言う。
「好きにしろ」
 中年の男が答える。
「わたしお金なんて」
「身体で返してね」
 若いほうの男が私を床に押し倒す。
「やっ、やめてください」
 逃げようと必死で身体を動かしても全然動けなかった。横を向いて泣いていると、上にのっている男が私のあごをつかんで上を向かせる。そしてニヤッと笑って言う。
「泣かれると萌えるからもっと泣いていいよ。あははっ……」
 
 事務所の扉が開いた。
 ミシェルが立っていた。
 中年の男が拳銃を向けて言う。
「誰だ、おまえ」
 ミシェルが横目でそっちを見ると拳銃が床に落ちる音がした。
 そして中年の男が小さなうめき声をあげて倒れ、すぐに静かになった。
 若い男が立ち上がる。
「な、なにこいつ」
 ミシェルはゆっくりと歩き、こちらに近づいてくる。
 若い男は後ずさりしながらナイフをかまえる。
 私は熱風を感じ身をちぢめた。
 若い男が炎に包まれていた。
 悲鳴が聞こえている。
 ミシェルは私を抱きよせ、私の耳を手のひらでぎゅっとふさいだ。
 彼の手が少し震えているように感じた。
「ミシェル……」
 私は彼の顔を見上げる。
 彼は私の目をみつめ、少し微笑んで言った。
「帰ろう」

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written by nano 2008/02/13

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