冬の夕空
 1 新しい空気
 
 
 月曜日、花街のはずれにあるこの洋菓子店はいつも暇だった。
 花街では週末にみんなお金をたくさん使うからだろう。お茶を飲みに来る客さえあまりいない。まあ、お茶を飲みにくるというより同伴出勤の待ち合わせに使われているだけかもだけど。
 カトラリーの手入れをしていると二人組みの客が来た。
「ねぇ、そこのかわいい店員さーん」
 愛想のいい若い男性に声をかけられる。栗色の髪にパッチリとした明るい瞳。ハンサムといえなくもない。
「キミいつもここで働いてるの? 名前は? 歳いくつ?」
 場所が場所だけに、男性客も多いこの店ではこんな軽口をたたく客は多い。ほとんどが単なる社交辞令みたいなものだ。だからもちろんこんなことに今さら動揺しない。
 だけどこの日は違った。ものすごくドキドキしていた。
 土曜の夜、教会にいた彼がいっしょにいた。
 彼はケーキが並べられたショーケースを熱心に眺めている。
「ミシェル、ケーキ決まった?」
 愛想のいい男性が彼に声をかける。
 ミシェル。彼の名前……。ミシェルっていうんだ。
 彼は、ミシェルは、私のほうを見た。緑色の瞳で。
 息が止まった。
「何がオススメ?」
 素敵な声!
「りんごの季節なのでりんごのタルトがオススメです」
 声が震えるんじゃないかと思って緊張した。
「じゃあそれと、これとこれと……」
 今度は手が震えてケーキを落とさないように注意しなければいけなかった。
 ケーキを詰め終わると愛想のいい男性がお金を払った。
「領収書書いてね。あて名はこの名前で。この名刺はキミにあげる。用があったら電話して」
 名刺には名前と電話番号。そして金貸し業と書いてあった。花街には金貸し屋はたくさんいるけど初めて見る名前だ。
「こんな子どもに金貸しても返せないだろ、レオン」
 ミシェルが言った。
「もちろんそんな用事じゃなくて! 食事とかデートとか。ね、マリィちゃん」
 レオンは私を見てにっこりと感じよく微笑んだ。私なんかとデートしなくてもたいへんにもてそうなタイプだ。
「なるほど」
 あきれたようにそう言って、ミシェルはコートのポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあね! また来るね!」
 そう言ってレオンは手を振りながら帰っていった。ミシェルは一瞬私のほうをチラッと見ただけだった。
 また……、また会いたいなんて思っていいのかな……。
 私は心の中で神様にお祈りした。

 神様は優しかった。
 翌日午後、ミシェルは店に来た。
「お茶を」
「こんにちは。こちらへどうぞ」
 テーブルに案内する。
「りんごのタルト美味しかった」
「あ、ありがとうございますっ」
 うれしい!
 お茶を運ぶとき私は話しかけてみた。
「あの、今日はお一人ですか?」
「待ち合わせ」
 誰と? もしかして同伴?
「レオンと」
「そうなんですか」
 思わず少し笑顔になる。
「あ」
 その顔を見て彼がつぶやいた。
「君……、レオン……。やめておいたほうがいい。君のような年端のいかない子がああいうのに惹かれてしまう気持ちはわかるけど……。相手が悪すぎる」
「え? あ、いや。ちがうんです。全然、ぜんぜんちがいますからっ」
 あわてて否定したのが変に不自然になってしまったかもしれない。
「本当に?」
「本当です」
 少し疑わしい目をしたまま彼は言った。
「まあ、僕には関係のない話だけれどね」
 よけいな話をしてしまった……。
 レオンはまた昨日のような調子でやって来た。お茶していきたいけどこれから仕事があるからまた今度、と言って笑顔で手を振った。景気がよさそうだ。ミシェルのほうはチラッともこっちを向いてくれなかった。

 ミシェルは毎日のように、午後お茶を飲みに来た。レオンと待ち合わせしていることが多かったが、一人で来て一人で帰ることもある。
 私はもうよけいなことは話さないようにした。彼もいつも静かに本を読んだり、ただぼんやり窓の外を眺めていたりした。
 お茶を出すとき彼の横顔をそっと間近で盗み見る。
 伏目がちな瞳に長いまつ毛。
 形のよいあごにサラサラとかかる金色の髪。
 本をめくる長く美しい指先……。
 店に若くてハンサムな客が来ることもたまにはあるが、こんなに透明感のある美しい男性を私は見たことがない。
 天使なのかもしれない。教会から出てきたんだもん。
 思わずうっとりする。
 すると彼が私のほうを見た。
 私があわてて笑顔をつくり、ごまかしながら立ち去ろうとすると彼は言った。
「紅茶、いつも君が淹れてくれているの?」
「はい」
「君の淹れる紅茶は美味しい」
 そう言って少しだけ微笑み、彼はまた本のページに目を落とした。
 ものすごく、ものすごくうれしかった。

 いつも通りの生活だけど空気だけがガラッと変わったように思えた。
 彼のことを少しでも思い出すだけで、わくわくした気持ちになる。
 もともと仕事が嫌いなわけではなかった。だけどパティシエール目指し働き始めて2年目、まだまだ下働きばかりなことが正直つまらないと思うこともあった。でも今はどんな小さなことだって大事なことだって思える。一日一日を大事にできる。
 やっぱり彼は天使なんだ。
 ショーケースのガラスにうつる自分に思わず微笑みかける。

 ある日の午後、レオンがめずらしく一人で店に来た。
「お一人ですか?」
「うん! ミシェルはちょっと遠くに出張に行ってる」
「そうなんですか。じゃあしばらくこちらにはいらっしゃらないのかな……」
 がっかりして私が言う。
「いや、まあ。2、3日ぐらいじゃない?」
 その答えに思わず笑顔になると、レオンは何かに気づいたような顔をした。
「あ、マリィちゃん……。ミシェルのこと……! ダメだよっ、だめだめ……。絶対にダメッ! 確かにミシェルはよく見たらちょっとかわいい顔をしているかもしれないけど……、性格がすごーく悪いから!」
「え? あ、いや、あの、えーと。……そうなんですか」
 否定するべきかどうかわからなくなって訳のわからない返事をしてしまう。ていうか、よく見なくてもかなりかっこいいと思うけど。
「それにあいつは相当変わってるからっ。俺みたいな普通の男のほうがいいって。せっかくミシェルがいないからよけいなこと言うやついないと思って来たのになぁ」
 レオンが普通の男、かどうかは判断つきかねるけど……。
 レオンはまたいつもの調子で今度食事に行こうなどと誘ってきた。具体的な日時も提案されたが丁重に断っておいた。

 空気が変わったこの世界では、別に一人の部屋に帰ることも寂しいことではなかった。
 だけど毎週土曜の夜は教会に寄った。
 神様にお礼を言わないといけないし……。
 というのはただの口実みたいなもので、またここでミシェルに会えるかもしれない。
 イスに座り、物思いにふけっていると声をかけられた。
「何してるの?」
 聞き覚えのある声に振り返るとミシェルが立っていた。
「え? あっ! いや別に……。あ、あのっ、ひさしぶりですね」
「ひさしぶり? そうかな?」
 3日顔を見てないだけだ。私は恥ずかしくなった。ミシェルは腰掛けながら言った。
「君、前もここにいたね」
 覚えててくれたんだ!
「はい。土曜の夜はなんとなく……まっすぐ帰りたくなくて。ここ落ち着くし」
「そう。神様……信じているの?」
「はい」
 ミシェルと出会ってから信じ始めたのだ。調子よすぎだろう。
 神様の前でまたちょっと自分が恥ずかしくなってうつむいた。
「僕も信じているよ。神様」
 そう言ってミシェルはとても優しく微笑んだ。
 やっぱり天使だ! 絶対!
「あ、そうだ」
 ふと思い出した。
「お店で今日あまったケーキだけど……。よかったら持って帰ってください。りんごタルトも入ってます」
 私はケーキの箱を差し出した。彼は少し考えるような表情をして言った。
「いま紅茶を切らしていて」
「じゃあうちでどうですか?」
 言ってから気づいた。なんてことを言ったんだろう、恥ずかしすぎる……。
「いいの?」
 と彼はうれしそうに言った。
 え? いいの? こんなことあって。
 神様ってすごい。

「かわいい家」
 扉をくぐりミシェルは言った。
「……狭いんです」
 私は小さくため息をついた。
 小さなテーブルとクローゼットとベッドのある部屋がひとつ。それにバス・トイレと小さな小さなキッチン。勢いで誘ってしまったけど、なんだか恥ずかしい。でもミシェルは楽しそうに部屋を眺めた。
 このことがあってからミシェルは毎週日曜に私の部屋へ来るようになった。いつも1時間ほど、紅茶と私が焼いたお菓子で過ごす。ミシェルは冷静で的確な批評もしてくれた。それはまだ店に出すようなお菓子を作ることができない私にとって、励みになり勉強にもなった。

 ある日ミシェルが私に聞いた。
「君はいつまであの店で働くつもり?」
「将来独立できるようなお金が貯まるまではあそこで働くつもりですよ。私、あの店のケーキ好きだし」
「残念ながらあの店は長くない。レオンに金を借りるようならもう末期だ。内緒だよ」
 彼はそう言って人差し指を唇にあてる。
「そうなんですか……」
 確かに新しい金貸し屋に借金するなんて。オーナーそんなに困ってたんだ……。
「だから面倒なことに巻き込まれないうちに逃げ出したほうがいい。まあでも今日明日というわけではないよ。半年もつかもたないかといったところかな」
 私は深くため息をついた。彼は続ける。
「君は紅茶を淹れるのがとても上手だからどこでだって働けるだろう。適当に旅をして気に入った町で暮らすといい。僕たちのように」
 そう言って彼はにっこりと笑った。

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written by nano 2008/01/30

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